サラリーマンはなぜサーフボードを抱えるのか?:勝手に訳者あとがき

訳者が見た「Rayさん」の肖像

Yuto Miyamoto
May 5, 2021
Image Courtesy of Why is the salaryman carrying a surfboard?

サラリーマンはなぜサーフボードを抱えるのか?』(Why is the salaryman carrying a surfboard?)は、コロナ禍でリモートワークが普及するなか、日本のサラリーマンのライフスタイルがいかに変容したかを入念なフィールドワークに基づき綴った1冊……ではなく、その名前とは裏腹に、日本のデザイン業界における白人至上主義の歴史と文脈について書かれたエッセイである。

著者でグラフィックデザイナーの真崎 嶺(いつも通り「Rayさん」と呼ぼう)は、日系アメリカ人として日本で暮らすなかで抱いた違和感、そして、2020年5月にジョージ・フロイドが白人警官に殺害されたことで再燃したBlack Lives Matterムーブメントをきっかけに、このエッセイを書き始めることになる。

Rayさんの考えは、日本のデザイン業界は海外の文化を、その文脈を深く理解することなく盗用することによって恩恵を受けてきたというものだ。そしてそれは、ある意味においてグローバルで構造的な白人至上主義者に加担することであり、マイノリティの文化を貶めることでもある。こうした現象が生まれた背景にはどんな理由があったのかを、数々の文献とケーススタディをもとに彼は綴っていく。

本書の魅力は、広範囲にわたるリサーチによって日本に「白人への憧れ」が根付くに至った歴史的なキーイベントがまとめられていることに加えて、常にRayさん自身のパーソナルな視点や体験が織り込まれていることだ。エッセイにはリサーチから見えてきた過去の出来事だけでなく、彼の個人的なエピソードから自身が日本で暮らすなかで見聞きしたもの、街中やオンライン上で見つけたおもしろいデザイン、幼少の頃の記憶や母親との会話までが散りばめられている。そして後半では、最近のクリエイティブ業界で起きたことに対する彼自身の考察や、本書で示した課題を解決していくために必要なアクションまでが提示されている。

こうしたパーソナルな視点をもって綴られているからこそ、「人種差別」という複雑で難しい、そして本書で指摘されている通り日本社会では積極的に語られないテーマを、身近なものに感じさせてくれる力がこの本にはある。「最もパーソナルなことが最もクリエイティブである」とマーティン・スコセッシ監督は言うけれど、本書はまさに、Rayさんの極めてパーソナルな想いから生まれているからこそ、読み手に響くものになっている。

3月中旬に翻訳の初稿を終えた頃だったか、2人で本の打ち合わせをしているときにRayさんがふとこぼした言葉は、このエッセイに対する彼の姿勢を端的に表しているように思えたのだった──「初めて自分で書きたいと思ったし、書かなければいけないと思った」。

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Rayさんは1990年、ニューヨーク生まれ。アメリカに移り住んだ日本人の両親のもと、日本とアメリカの2つの文化に囲まれて育つ。カクレンジャー、ポケモン、コロコロコミック、デジモン、遊戯王など、物心ついた頃から日本のアニメやマンガに触れており、好きなアニメの絵をスケッチブックに描いて遊んでいたような原体験が、のちに彼をデザインの世界に導いていく。

その後、Rayさんはパーソンズ美術大学にてデジタルデザインやイラストレーション、グラフィックデザインを勉強したのち、2013年にType@Cooperでタイポグラフィを学んだ。スタートアップでの勤務やフリーランスのデザイナーとしての経験を経て、2017年に彼は東京に拠点を移す。それは本書でも語られているように、自分のルーツである日本をよりよく知るためだった。東京ではアメリカにいた頃から憧れのデザイナーだった長嶋りかこに師事したのち、2019年より現在の職場であるTakramに参画している。

Photograph Courtesy of Ray Masaki

こうしたRayさんのバックグラウンドやこれまでの経験については、Takramのポッドキャスト『Takram Cast』で彼自身が語っているので、ぜひ聴いてみてほしい。シャイだけど内に秘めたたくさんの想いをもつ、彼のパーソナリティも感じていただけると思う(ポッドキャストの最後にはエッセイの話も出てくるが、「はじめに」で書かれている通り、この本で示される意見はすべてRayさん個人のものであり、彼が所属する会社のものではないことはあらためてここでも述べておきたい)。

また、Rayさんは個人の活動として、自身でデザインしたTシャツやポスターを販売するブランド「Bathboys湯」や、日本のニッチなデザインオブジェクトをアニメーションで解説するYouTubeシリーズ「Kokishin」を手がけるほか、英語で説明するのが難しい日本語のカタログ日本のデザイン業界で使われる用語を英語に翻訳したリストもつくっている。ほかにもさまざまなユーモア溢れる作品をつくっているので、彼のウェブサイトからぜひチェックしてみてほしい(ぼくのお気に入りは「エスカレーターについて」というバイリンガルのポスター)。

こうしてRayさんのバックグラウンドとパーソナルワークを振り返ってみると、『サラリーマンはなぜサーフボードを抱えるのか?』は、日本とアメリカにアイデンティティをもち、両方の文化の視点をもつ彼だからこそ書けた本なのだろうと思わずにはいられない。

日本で生まれ育った人のなかで、雑誌や広告に白人やハーフのモデルが多いことに疑問をもち、それがなぜなのかを調べようと思ったことのある人がどれくらいいるだろう? 商品のパッケージに「飾り英語」が使われていることをおかしく思ったことのある人がどれくらいいるだろう? 正直に言えば、ぼくはこのエッセイを読むまで、これらのものはある意味当たり前のもの、元から社会にある“そういうもの”としか認識していなかった。しかし本書の翻訳を終えたいま、街を歩くたびに「白人だらけの広告」が気になってしょうがなくなってしまった。

言い換えれば、エッセイを通してRayさんがもつバイカルチャルでクリティカルな「レンズ」を得ることができたということだ。それこそがこの本の価値であり、日本人の読者が本書を読むべき理由だとぼくは考えている。

最後に、なぜプロの翻訳家ではないぼく(宮本)が本書の翻訳を務めることになったのか、その経緯を説明したい。ぼくはフリーランスの編集者として働いており、Rayさんが務めるデザイン・イノベーション・ファーム、Takramの仕事もしている。定期的に仕事をしているのでTakramのSlackチャネルにもゲストアカウントをもたせてもらっているのだが、そのSlackで2020年6月上旬のある日、Rayさんからダイレクトメッセージが届いたのだった。

2020年6月といえば、アメリカでジョージ・フロイドが殺害され、Black Lives Matterムーブメントが再燃した直後のこと。Rayさんはその長文のメッセージのなかで、アメリカ人としてBLMをサポートしたいけれど、物理的・感情的に現在はアメリカから離れているため自身の無力さを感じていること、そして日本にいる自分にできることは、このエッセイを書き、日本のなかで必要な議論を生み出していくことだと考えていることを教えてくれた。さらに、このセンシティブなトピックを適切なニュアンスをもって日本の読者に届けるために、ぼくに日本語への翻訳を手伝ってほしいと伝えてくれた。

もちろん、ぼくはそのメッセージをもらってうれしかったし、「手伝いたい!」と即答した。しかし実のところ、ぼくは同時にかなり驚いてもいた──それまでRayさんとは、ほとんど個人的な話をしたことがなかったからだ。その年の春にTakramのあるプロジェクトで同じチームになったことはあったが、すでにほぼすべてのコミュニケーションがオンラインに移っていたこともあり、直接言葉を交わしたことはほとんどなかったのである。

にもかかわらず、Rayさんはこのパーソナルなプロジェクトに声をかけてくれて、彼のメッセージを日本の読者に届けるための大事な仕事を任せてくれた。それまで多くは話さなかったけれど、プロジェクトを通してぼくの仕事ぶりを見てくれており、翻訳の仕事をお願いしてくれたのだ。

それからちょうど1年かけて、たくさんの議論と書き直しを経て、こうして無事に本を完成させることができた。もちろんこれはRayさんのパーソナルな想いから生まれたプロジェクトだが、いまではぼくにとっても「自分ごと」と思える大切なプロジェクトになっている。Rayさん、そう思えるようなプロジェクトにかかわれる機会をつくってくれてありがとう。

またRayさんが執筆の過程でイエン・ライナムをはじめとする何人かにアドバイスやフィードバックをもらったように、翻訳原稿をつくる過程でも数人の方々にご協力をいただいた。グローバル市民としていつもクリティカルな視点でフィードバックをくれるナカタマキさん、デザイナーの観点で原稿に感想をくれた井上麻那巳さん、丁寧な校閲によって原稿の精度を高めてくれたVERITAのみなさん、ありがとうございました。

言い訳っぽく聞こえてしまうかもしれないけれど、本書はぼくが「翻訳家」としてかかわった初めての仕事であり、ぼくは人種差別や文化的盗用といったこの本で語られるテーマを專門にしているわけでもない。もちろん自分なりにベストは尽くしたが、「完璧な文章などといったものは存在しない」と村上春樹が書いているように、完璧な翻訳というものも存在しないだろう。翻訳という仕事について、人種差別という社会課題について、ぼく自身も学んでいる途中である。

本書の翻訳を通して思ったのは、人種差別の問題を日本語で語るための「言葉」も磨いていく必要があるのではないかということだ。たとえば、「blackness」や「whiteness」という言葉をみなさんならどう訳すだろう? 「Black American」と「African American」をどう使い分けるだろう? 「reduce」「minimize」「oppress」「marginalize」といった言葉のニュアンスを、日本語訳としてどう的確に伝えられるだろう? 以前、ジェンダーイコールな社会をつくるためには日々の言葉を見直していかなくてはいけないという記事を読んだことがあるが、それは人種差別の問題においても言えるのかもしれない。これは英語の事例だが、実際に2020年6月、AP通信は人種、民族、文化的な文脈で黒人という言葉を使う場合に、「Black」の「B」を大文字表記にすることを発表している

言葉の仕事に携わる者として、こうしたトピックについて語るためのよりよい言葉の選択をしていくための議論を、読者のみなさんと行えたらと思う。そしてこのエッセイを翻訳した者として、本書を手にとっていただいた一人ひとりが、身近な同僚や友人、家族やパートナーと、本書の内容について、自身の感想や体験について、話し始めてくれたらと思う。Rayさんが提案するように、意味のある変化とは、一人ひとりの対話から始まるのだから。

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